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アレクサンダー・
グラハム・ベル
アメリカ 1847~1922
電話の父
アメリカ電話電信会社(AT&T社)を設立
イギリスの生物学者メルビル・ベルのもと、スコットランドはエディンバラに生まれた。幼少時代は勉強嫌いだったそうで、15歳のベルは父に連れられてホイートストン研究所を訪れる。ここでブリキとゴムで喉と唇が作られた「会話機」を目にし、これをいじっていたベルは人口音声の発声に挑戦する。「ママー!ママー!」と泣き叫ぶ幼児の声だけは真に迫っており、近所の人が様子を見にきたほどだった。これがベルのろう教育への目覚めとなったようだ。
エディンバラ大学、ロンドン大学を卒業する。ホイートストン卿のもとで電信の初歩を学び、24歳でカナダに、26歳でアメリカに移住し、ボストン大学の音声生理学の教授となる。鼓膜の研究から鉄の薄板を人工鼓膜とする発想をもち、これが電話の振動板の原型となった。
ベル最初の電話機
1876年、電話器を発明する。 送受端でそれぞれ電磁石の前に振動板を設置し、振動板の信号を電磁石の電気信号にかえて、この電気信号を受信側で音響信号に変換するものである。世界発の通話は悲劇とともに行われた。「ワトソンくん!早くきてくれたまえ!」 実験中に蓄電池の硫酸を膝にこぼしたベルが、ウイリアムズ研究所から派遣されていた助手のワトソンに助けを求めた声だった。同年フィラデルフィアで開催されたアメリカ建国100周年万国博覧会でベルの電話が世界に紹介され、これがきっかけとなって1877年にベル電話会社が設立される。のちに巨大企業に成長し、今日のAT&T、ウエスタン・エレクトリック、ベル研究所に発展していく。
博覧会での電気部門審査委員長はW・トムソンであり、特別来賓にはブラジルの若き皇帝ドン・ペドロが出席していた。 ニューヨーク~ニューアーク間10kmを結び、自ら電話器の実験に参加した皇帝は「電話器はポルトガル語もしゃべる」ということでたいそう満足したそうだ。 ちなみにベルが朗読したシェイクスピアはペドロ皇帝に通じなかったらしい。 W・トムソン相手にベルが実験したときは、ベルが電話ごしに歌ったそうだが、驚きのあまりW・トムソンは硬直してしまったらしい。 あのサー・ウィリアム、後のケルヴィン男爵がである。
「私の言っていることがわかりますか?」との電話の向こうのベルの声に、彼に伝えなくては!ということで52歳の大科学者W・トムソンは29歳のベルのもとへ息せき切って駆けつけ、 「聞こえました。”私の言っていることがわかりますか”という言葉が!」と答えたという。 新しい科学の発見とはこんなものなのかもしれない。
アメリカでみた最高の発明であるとベルの電話器を絶賛したW・トムソンは、1セットの電話器をイギリスに持ち帰った。 ヨーロッパ中に紹介され、このとき以来ベルの電話器はあらゆる博覧会の呼び物となった。
日本には金子堅太郎と、後の東京音楽学校校長である伊沢修二によって日本語での通話が可能であることが確認され、1877年(明治10年)、最初の電話器が上陸する。
こんな逸話がある。1本の電線に複数の周波数電流を重畳する多重電信の特許出願のためにワシントンへ赴いた際、スミソニアン所長で当時77歳のヘンリーに電話構想を話し、「電話の研究をぜひ進めるように」と言ってもらえた。 「私には電気の知識がない...」と弱音をはくベルに、ヘンリーは激を入れたという。「電気の知識が必要なら、それを勉強すればよいではないか!」 ボストン~ケンブリッジ間の通話に成功したのちにベルは、「ヘンリーの激励がなかったらこの研究は進まなかったであろう」と語っている。
通信事業に興味がなかったベルは、当時アメリカ最大の電信会社であったウェスタン・ユニオン社に10万ドルで電話機の特許を売ろうとした。 電話の将来性を見誤った同社が取引を断った為、しかたなく自身の会社、ベル電話会社を設立する。ボストンに電話線を敷設し、新聞社にニュースを送ることから始めた。
電話の実用性が認識されるようになり、各地に子会社が設立される。博覧会から3年後にはその数148社という急成長であった。 ベルの電話機に興味を示さなかったウェスタン・ユニオン社はエジソンが発明した炭素送話器によって電話事業を始める。 ベル電話会社とウェスタン・ユニオン社は特許権問題で争うことになり、裁判に発展する。 政治的介入により、ベル電話会社は電信部門には進出しないかわりに、ウェスタン・ユニオン社は電話から手を引くという決着になった。 電話、電信でそれぞれが独占的な利潤を得る保証を得たことになる。 ベル電話会社、ナショナル電話会社、アメリカ電信電話会社(AT&T社)と名前を変えるたびに大きな飛躍を見せ、世界の電話をその参加に収めるまでになる。
役者で発声法の専門家である祖父をもち、難聴の母と、妻のために”ビジブル・スピーチ・キット”という発音分類法を考案した父をもつ。 幼い頃から音声に興味を持ち、ベルの家庭環境は聾唖教育者以外の何を目指す?と言わんばかりの養成コースとなっていた。 さらに愛した人は、幼い頃の高熱により聴覚を失った聾唖教育の教え子であるメルベル。聾唖者のために人工的に音声を作り出す。これこそベルの悲願であり愛であった。 彼女はボストン中心部の大部分を所有する富豪ハバート家の三女であり、幾多の壁を越え交際を認めてくれたメリベルの父親から差し伸べられた援助がワトソンくんである。彼の給料はメリベルの父が負担していた。
すぐれた人格者であったベルは、晩年に多くの社会奉仕をした。 ベルの指導を受けたヘレン・ケラーはその自叙伝をベルに捧げ、その献辞の中で「彼が最も幸福を感じられたのは、幼い聾唖児を両腕に抱き上げられたときであった」と述べている。
アメリカの有名科学誌”サイエンス”の創刊に貢献し、電話器以外にもさまざまな発明をしている(ヒツジの品種改良なんてのまである)。 粗末な実験室から発展したベル電話研究所は現在では世界最大の研究所になり、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。 彼の葬儀の日は、アメリカおよびカナダの全ての電話が1分間通話を停止して、偉大な発明家に敬意を表したという。
Last Update 2010/08/19
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