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アレクサンダー・
グラハム・ベル
アメリカ 1847~1922
電話器の発明
アメリカ電話電信会社(AT&T社)を設立
イギリスの生物学者アレクサンダー・メルビル・ベルのもとに生まれエディンバラ大学、ロンドン大学を卒業する。 ホイートストン卿のもとで電信の初歩を学び、24歳でカナダに、26歳でアメリカに移住し、ボストン大学の音声生理学の教授となる。 鼓膜の研究から鉄の薄板を人工鼓膜とする発想をもち、これが電話の振動板の原型となった。
ベル最初の電話機
1876年、電話器を発明する。 送受端でそれぞれ電磁石の前に振動板を設置し、振動板の信号を電磁石の電気信号にかえて、この電気信号を受信側で音響信号に変換するものである。 同年フィラデルフィアでひらかれたアメリカ建国100周年万国博覧会でベルの電話が世界に紹介され、これがきっかけとなって1877年にベル電話会社が設立された。 これはのちに巨大企業に成長し、今日のAT&T、ウエスタン・エレクトリック、ベル研究所に発展する。
博覧会での電気部門審査委員長はW・トムソンであり、特別来賓にはブラジルの若き皇帝トン・ペドロが出席していた。 皇帝は自ら電話器の実験に参加し「電話器はポルトガル語もしゃべる」ということでたいそう満足したそうだ。 W・トムソン相手にベルが実験したときは、ベルが電話ごしに歌ったそうだが、驚きのあまりW・トムソンは硬直してしまったらしい。 あのサー・ウィリアム、後のケルヴィン男爵がである。
「私の言っていることがわかりますか?」との電話の向こうのベルの声に、彼に伝えなくては!ということで52歳の大科学者W・トムソンは29歳のベルのもとへ息せき切って駆けつけ、 「聞こえました。”私の言っていることがわかりますか”という言葉が!」と答えたという。 新しい科学の発見とはこんなものなのかもしれない。
アメリカでみた最高の発明であるとベルの電話器を賞賛したW・トムソンは、1セットの電話器をイギリスに持ち帰った。 ヨーロッパ中に紹介され、このとき以来ベルの電話器はあらゆる博覧会の呼び物となった。
日本には金子堅太郎と、後の東京音楽学校校長である伊沢修二によって日本語での通話が可能であることが確認され、1877年(明治10年)、最初の電話器が上陸する。
こんな逸話がある。1本の電線に複数の周波数電流を重畳する多重電信の特許出願のためにワシントンへ赴いた際、スミソニアン所長で当時77歳のヘンリーに電話構想を話し、「電話の研究をぜひ進めるように」と言ってもらえた。 「私には電気の知識がない...」と弱音をはくベルに、ヘンリーは激を入れたという。「電気の知識が必要なら、それを勉強すればよいではないか!」
ボストン~ケンブリッジ間の通話に成功したのちにベルは、「ヘンリーの激励がなかったらこの研究は進まなかったであろう」と語っている。
通信事業に興味がなかったベルは、当時アメリカ最大の電信会社であったウェスタン・ユニオン社に電話機の特許を売ろうとしたが取引は不成功に終わり、自身の会社ベル電話会社を設立する。 ボストンに電話線を敷設し、新聞社にニュースを送ることから始めた。
電話の実用性が認識されるようになり、各地に電話会社が設立される。 ベルの電話機に興味を示さなかったウェスタン・ユニオン社はエジソンが発明した炭素送話器によって電話事業を始める。 ベル電話会社とウェスタン・ユニオン社は特許権問題で争うことになり、裁判に発展する。 政治的介入により、ベル電話会社は電信部門には進出しないかわりに、ウェスタン・ユニオン社は電話から手を引くという決着になった。 電話、電信でそれぞれが独占的な利潤を得る保証を得たことになる。
すぐれた人格者であったベルは、晩年に多くの社会奉仕をした。聾唖教育への奉仕もその一つである。 ベルの指導を受けたヘレン・ケラーはその自叙伝をベルに捧げ、その献辞の中で「彼が最も幸福を感じられたのは、幼い聾唖児を両腕に抱き上げられたときであった」と述べている。
アメリカの有名科学誌”サイエンス”の創刊に貢献し、電話器以外にもさまざまな発明をしている(ヒツジの品種改良なんてのまである)。 粗末な実験室から発展したベル電話研究所は現在では世界最大の研究所になり、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。 彼の葬儀の日は、アメリカおよびカナダの全ての電話が1分間通話を停止して、偉大な発明家に敬意を表したという。
Last Update 2008/03/23
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