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ルートヴィッヒ・
エデュアルト・ボルツマン
オーストリア 1844~1906
気体分子運動論の完成
統計力学の基礎を築く
収税吏の息子としてオーストリアに生まれる。1850年に物理学教室を新設したウイーン大学に1863年に入学し、28歳のヨーゼフ・ステファン教授の指導をうける。 新鋭の教室には理論的革新を推し進める熱意に満ちていた。1866年、22歳のボルツマンは博士号を取得、ステファンの助手となり、翌年には講師になる。 1869年、グラーツ大学の数理物理学教授に就任。
音楽や詩といった芸術を好み、生涯にわたりピアノの演奏を好んだ。
1868年、マクスウェル‐ボルツマン分布の完成。 気体の分子運動については1859年にマクスウェルが発表している。マクスウェルの速度分布と呼ばれる式であるが、これは論理的、数学的にいえるもので、物理的な証明がされていなかった。ボルツマンはニュートン力学を用いてマクスウェルの速度分布が導かれることを証明した。 また、マクスウェルの考察では運動エネルギーしか含まれていなかったが、ボルツマンはこの分布則をあらゆるエネルギーに拡張し気体分子運動論を完成させる。ボルツマンの理論により変化したマクスウェルの速度分布は、現在マクスウェル‐ボルツマン分布を呼ばれている。
1872年、ボルツマン方程式を提唱。統計力学の大黒柱ともいえるもので、H定理はここに含まれる。物理学の論文は普通数ページから10ページ程度が一般的だが、ボルツマンは100ページの論文を発表した。 この中で数々の数式を展開しているが、その一つに”原子間の衝突による速度分布の時間的変動に関する方程式”があり、これが現在ボルツマン方程式と呼ばれている。 H定理のHは”速度分布の自然対数の平均”に相当し、本来はEであった。ボルツマン方程式の中で”ある熱力学的な量”という概念を導入し、これの表現にボルツマンはEを使ったのだが、ドイツ語大文字のEをイギリスのある科学者がHと読み違い現在に至る。
1877年、ボルツマンの原理を提唱。エントロピーの統計力学的解釈をあらわす S = k log W とういう式である。熱力学や統計力学ではさまざまな形で使用される。
1884年、ステファン‐ボルツマンの法則。 黒体の全発射能は絶対温度の4乗に比例するとしたものであり、ボルツマンの師ステファンが輻射の全エネルギーと温度との関係を実験結果より導き、ボルツマンがマクスウェルの電磁波理論とカルノーの熱力学を適用して理論的な証明をした。
H定理、ボルツマンの原理。ボルツマンの2大功績であるが、どちらも原子の存在を前提としており、発表当初は原子という概念が信用されず評価されることはなかった。 当時、原子や分子の存在は状況証拠的なものばかりではあったが、ドイツ語圏以外では原子論が受け入れられていたが、ドイツでは「物理学の対象を議論するのに確立を云々するのは根本的に間違っている」という批判にさらされる。
ボルツマン対反原子論科学者という構図ができあがり、音速のマッハ(オーストリア)やエネルギー論者のオストワルド(ドイツ)からことあるごとに攻撃を受ける。 師ステファンと友人ロシュミットを亡くした後は孤独になり、精神的疲労から視力の衰え、喘息、頭痛に悩まされ、鬱が発病する。
1906年、大学から休暇をとり家族でイタリア・ドゥイノへ静養へ出かける。妻と娘たちが海水浴に出たすきに首を吊って自殺。享年62歳だった。
Last Update 2008/03/23
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