電気史偉人典では電気の歴史に名を残す偉人たちを紹介しています
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マイケル・ファラデー
イギリス 1791~1867
史上最大の実験物理学者
偉大なる”自然哲学者”
1791年、モーツァルトが没した年の9月22日。イングランドはニューイントン、テムズ川ほとりのバッツに4人の子をもつ鍛冶職人の長女エリザベス、長男ロバートに続く第3子として生まれる。一家がウェストモーランドの村からロンドンに移り住んだのはファラデー5歳の頃であり、産業革命によって急激に人口が増加した当時のロンドン職人は大工場に仕事を奪われていた。
1801年には生活保護の申請をしなければならないほど家が貧しかったファラデーは、13歳で製本屋の配達員として働きはじめ、家計を助ける。当時ロンドンにおける少年労働者の平均労働時間は14.5時間/日、週六日という過酷さである。多くの過労死が出ており、少年たちの平均寿命は15歳といわれるほどであった。 翌年14歳、配達員から徒弟に昇格する。腕のよい製本職人であるフランス人、ジョルジュ・リボー親方のもと、住込みで働くようになる。19歳で父を亡くしてからは親方が父親がわりだった。
経済的事情から学校教育を受けられなかったファラデーの学校は製本職場の片隅であった。学問好きなファラデーはここで知識を、特に化学、電気に興味をもち、本格的な化学の勉強ができる仕事につきたいと考えるようになる。
ファラデーのノート
ファラデーに幸運が訪れるのは彼が22歳のときであった。王立研究所の化学者デービーの助手を志願するため、デービーの講演を聴いてとったノートを製本し、これを持ってデービーに会見を申し込んだ。ノートの出来、製本の出来ともに好印象だったようだ。ちょうどペイン助手が事故をおこし急に退職したため、助手に欠員が出たところでもあった。
まだ職業として確立していない科学者の道を歩むよりは、製本職人を続けたほうがいいとデービーから忠告を受けながらもファラデーは採用されることになる。当面の仕事は以下のとおりで週給25シリングと、階上に二部屋の居住区という境遇だった。
最初に与えられた研究的な仕事はビートから砂糖を抽出することであった。さとうきびを輸入していたイギリスでは国産のビートから砂糖を作ることは、政治的、経済的に大きな意義があった。
デービーのお供で18ヶ月にわたりヨーロッパ各地をめぐる旅をする。各地の学者と面識を得る機会に恵まれ、パリではアンペール、ミラノではボルタと面識を得る。ボルタ65歳であった。デービーはファラデーを助手として連れて行くつもりであったが、上流階級出身で気が強いデービー夫人の意向によりファラデーは召使いも兼ねることになる。ファラデーもこれにはさんざん悩まされたようだ。帰国後、週給が30シリングに増加する。
デービーのもとでさまざまな研究成果をあげ、1825年、王立研究所の実験主任となる。
1816年、ファラデーの処女論文が”科学季刊誌”に発表される。天然生石灰の分析結果に関するものであり、分析の対象は天然生石灰のほかに、水、気体、粘土、さび、火薬などがあった。
1819年、ダマスカス鋼の研究に取り組む。ストダートという金物製造業者からの研究依頼がはじまりであったらしく、1823年にストダートが死去するまで継続された。その目的はダマスカス鋼よりも優れた刃物を作ることであった。鍛冶屋の息子であったファラデーにとって鋼の鋳造は見慣れたものであった。ダマスカス鋼よりも優れた刃物を作ること目的に、炭素鋼に金、銀、プラチナ、ニッケルなどの元素を添加する実験を繰り返し、79種の合金鋼をつくった。プラチナを添加した白金鋼は錆びにくく、ファラデーは錆びない金属ステンレスの開発先駆者でもある。
ファラデーの電動機
1820年、エルステッドやアンペールが相次いで発表をし、このころからファラデーも電磁気の研究を始め、1821年、電流と磁石の間の相互作用を発見する。ある日、師であるデービーと高名な学者ウラストンとの議論を耳にし、その会話から独断で単独実験を行って”ある新しい電磁気運動について。また磁気の理論について”という論文を発表する。これは電磁気エネルギーを機械的エネルギーに変換する最初のものであり、モーターの原理となるものであった。論文はただちにフランス語に翻訳されて全ヨーロッパに広がり、これによってファラデーは一挙に第一級の科学者として認められた。しかし、この発見はウラストンの研究に割り込んだものと王立研究所内では評価されてしまうことになる。この発見は1831年の電磁誘導と区別して電磁回転と呼ばれている。
1824年、ロンドン王立協会の会員に選ばれる。すでにフランス科学アカデミー、フィレンツェ科学アカデミーの通信会員には選ばれていた。入会には保証人が必要であり、通常は10人程度である。ファラデーの場合、先のウラストンを含め29人の署名が集まった。このころにはデービーとの関係が悪化しており、ファラデーの選出に唯一反対票を投じたのはデービーであった。
1825年、王立研究所の実験主任に就く。これまでの収入は助手の週給30シリング(入所時は25シリング。これは製本見習いより安い。)であったが、この昇進により年給100ポンドとなった。これは当時の一般労働者の倍にあたり、炭鉱夫のそれと同程度になる。ファラデーを実験主任に推したのはデービーであった。この後1853年にイギリス政府から年金300ポンドが追加されるが、このとき時の首相メルボーンに頭を下げさせたという逸話がある。
1825年、さまざまな油の性質を調査していたファラデーは、ガス灯の容器にこびりついた油状の物質からベンゼンを発見する。
1826年、クリスマス講演を始める。一流の科学者であり、一流の教育者でもあったファラデー。彼は言う。「楽しませ、もてなし、同時に啓発し、なにより聴衆にひらめきと感動を与えることに徹する」 マクスウェルは言う。「ファラデー先生の素晴らしさは研究動機にある。真理への情熱が喜びに変わる。彼の後継者は皆この精神を受け継いでいる」 イギリスの著名な科学者たちは皆この講演を聞いて育ってきた。会場からは一流の科学者たちが巣立っていった。
1827年、”化学処理”(Chemical Manipulation)という656ページもの化学実験の本を出版する。ファラデー自身の経験をまとめたもので、電気配線やガス配管がなく、純度の高い化学薬品などはほとんど入手できない時代の実験技法や指図が詳細に示されており、何十年も教科書として用いられた名著である。
ファラデーのコイル
1831年、ファラデーの電磁誘導現象を発見。エルステッドは電気から磁気を発生させた。ならばその逆も可能ではないか?というのがはじまりであった。二つのコイルを離して置き、片方のコイルに電流を流し、片方のコイルに検流計を接続して電流を流した直後、検流計は大きく振れたがすぐに止まった。電流を止めると検流計は逆に振れたが、これもすぐに止まった。磁石をコイルに近づけたり離したりするとその速さに比例して検流計の振れが大きくなることも発見し、ロンドン王立協会で”電磁誘導の法則”を発表する。これが最初の変圧器であり、電磁気学の飛躍的な進歩の幕開けである。数ヵ月後、銅板の周りに磁石を設置して銅板を回すと電気が発生するという、アラゴの回転磁気を利用した装置を発明する。正確にはアラゴの円板を解明するための実験装置であったようだ。これが世界初の発電機であり、機械エネルギーを電気エネルギーに変換する最初のものとなった。
こんな逸話がある。「磁石を使ってほんの一瞬電気を流してみたところで、それがいったい何の役に立つのか」と問いかけた政治家に対し、「20年もたてば、あなたがたは電気に税金をかけるようになるでしょう」とファラデーは答えたという。まさしくである。
1832年、コプリ・メダル受賞。
1833年、フラー講座の教授に就任する。王立研究所公開講座の愛好者であったジョン・フラー下院議員の寄付によって開設された講座であり、これにより年俸はそれまでの2倍の200ポンドになる。当時の職人の平均年収が30~70ポンド、パブ経営者が100~200ポンド、軍将校が100~250ポンドといったところであった。
1833年、ファラデーの電気分解の法則を発見する。
一定の溶液において電極に析出(または放出)する物質量は、溶液を通して流れる電流量(電流×時間)に等しい
種々の物質の1価のイオンは等しい量の電気を運び、2価、3価のイオンはそれぞれ、2倍、3倍の電気量を運ぶ
物質1[g]当量を析出するのに必要な電気量である96500クーロンを1ファラデーと呼んでいる。ファラデーは正イオンをカチオン(cation)、負イオンをアニオン(anion)と呼んだ。現在の陰極(cathode)、陽極(anode)をはじめ、電極(electrode)、電解質(electrolyte)、電気分解(electrolysis)、イオン(ion)などはファラデーの命名であり、ギリシャ語に由来している。”極”を表す”ode”は”道”を意味し、anode:太陽が昇る道、cathode:太陽が沈む道、anion上昇するもの、cation下降するもの、ということである。 (正確にはファラデーに助力を求められたケンブリッジの大物で哲学、数学の専門家でもあるウィリアム・ヒューエルの提案によるもの)
1833年、ファラデー暗部を発見する。5[Torr]程度の真空度の放電管に電流を流すと、グロー放電の陽光柱直前に暗部が発生することに気づく。これがファラデー暗部であり、電場が弱まり、分子の励起も電離も行われない領域である。
1837年、電気力の遠達作用を否定する。電気の吸引・反発力は引力のように、間に何もなくても作用する力であるという遠達作用論があったが、弾性的な媒体を介して伝わるとする近接作用論を提唱する。数学が不得手であったファラデーは電磁誘導現象を理解したとき、電磁石の上に鉄粉を撒き、磁力線を認識していた。ファラデーの頭の中には電流の流れる線を中心とし、宇宙空間に限りなく広がる磁力線のイメージが出来上がっていたようだ。
1838年、2度目のコプリ・メダル受賞。
1839年、半導体性物質を発見する。酸化銀にランプを当てると導電性が増し冷却すると絶縁性が増加した。世界初の半導体性物質の発見であるが、本格的に半導体が研究されるまでにはあと100年を要することになる。
1839年、”電気学の実験的研究”第1巻刊行。
1844年、”電気学の実験的研究”第2巻刊行。
1845年、反磁性の発見。硼珪酸鉛ガラスを電磁石の間に吊るしたところ、磁力線とは垂直の方向を向いた。鉄であれば磁力線の方向を向く。金属、ガラス、血、水、蠟など50種のとりまぜで追試した結果、物体が向く方向は磁力線の方向かその垂直方向のいずれかであったので、物質には磁性体と反磁性体の2種類が存在するとした。
1845年、光の偏光面が磁界により回転するというファラデー効果を発見する。偏光面は磁界の強さに比例して回転し、回転方向は磁場コイル電流の方向と同じであることが確認された。
1846年、光の電磁波説を思いつく。これが世に出たのはホイートストンの代役で講演をしなければならなくなったときに講演時間が余ってしまい、時間が余ったので「まだ確信には至りませんが、このようなことを考えています」と仕方なく発表した。これが反響を呼び、またしても仕方なく”光線の振動に関する考察”という短い論文を書くはめになった。ここで光の電磁波説について先見している。光の正体については多くの人が議論しているがファラデーもその一人である。
1855年、”電気学の実験的研究”第3巻刊行。
1862年、ファラデー生涯最後となる実験を行う。光源を磁場の中に置いて、そこから出る光に磁場が与える影響を見つけ出そうといった実験である。しかし、実験装置が不十分で予期した影響を検出することはできなかった。34年後、ファラデーのこの試みを書物で読んだオランダの若き実験家ゼーマンによってこの現象は解明されることになる。
”ドイツ物理学の総理大臣”と呼ばれたヘルムホルツがその妻に送った手紙のなかにファラデーについての記述がある。「ヨーロッパ髄一の物理学者に会うことを得た。つまりファラデーだよ。……これは私には素晴らしく楽しいひとときとなった。この人は純朴で穏やかな人柄で、控えめなことはまるで子供のようだ。こんなに好ましい人物にはあったことがないよ。その上本当に親切な人で、私一人を案内して、そこにあるものはみんな見せてくれた。もっとも、実はそういうことにはあまり大した意味はないんだ。何しろこの人は、木の切れっぱしや針金や鉄のかけらを使うだけでも最大級の発見をやってしまう人だからね。」
名前が売れていくに伴い、本人の意思とは裏腹に高額な仕事が舞い込んでくるようになっていく。1830年、31年の副収入は1000ポンドを超えていた。年老いた母を養わなければならないファラデーである。お金は必要なはずであった。 金儲けよりも自らの研究を追求する精錬高潔の人ファラデー。副業は全て断り、1845年以降の副収入は全くのゼロであった。「国家を代表する高名な科学者に年金を」との国民の声に政府が応じるが、当のファラデーはこれを辞退する。時の首相メルボーンが直接交渉をすることになるがファラデーは受け取らない。とうとうファラデー個人の年金支給について国王ウィリアム4世までもが介入する事件になる。金をとって仕事をするというプロフェッショナルな姿を嫌い、発明しても特許はとらず、政府の依頼は報酬を断るのがファラデーの基本姿勢であったという。
ロンドン大学の化学教授職やナイトの称号、王立研究所の会長就任要請、さらにはイギリス科学界最高の栄誉、ロンドン王立協会の会長就任要請さえ、協会会員の総意の要請でさえ、愛弟子ティンダルの説得を受けてさえ、「最後まで、ただのマイケル・ファラデーでいたい」との有名な言葉を残し、生涯一研究者であること貫く。
会長辞退の翌年、ヴィクトリア女王からロンドン郊外、ハンプトン・コートに別宅を贈られた。このときファラデー67歳。住まいはかわらず王立研究所の屋根裏であった。年老いた夫妻に毎日の階段往復はきつかったはずである。畏れ多いと遠慮するファラデーであったが、今回は女王が譲らなかった。
王立研究所の講義を受けもち続け、クリスマス休暇には子供向けのやさしい科学講座を始め、1966年以降、このクリスマス講演はテレビ放映されるようになった。数あるクリスマス講演の中でもファラデーの"Chemical History of a Candle"はいろいろな国の言葉に翻訳され(和名:ろうそくの科学)、数え切れないほど多くの子供を喜ばせ、鼓舞してきた。
ファラデーのクリスマス講演
王立研究所のファラデー像
数々の輝かしい功績を残し、1867年8月26日、77歳。ハンプトン・コートでこの世を去る。多くの偉人が眠るウェストミンスター寺院に埋葬したいという案があったが、ファラデーは祖父母の代からサンデマン派であり、熱心な信者だった。異なる宗派の墓では眠れないとのことで、皇太子が総裁となって募金が集められ、ファラデーの大理石像が作られた。彼の最も馴染んだ家でもある王立研究所の玄関ホールに飾られている。
1973年2月。王立研究所の地階にファラデー博物館が開設された。実験途中のファラデーがわずかに外出したかのような19世紀の実験室を再現し、エリザベス女王とエディンバラ公を迎えての祝賀式典が催される。200年を超える歴史をもつ王立研究所にエリザベス女王が出向くのは、これが初めてのことであった。
ファラデー同様、数学を苦手とする偉大な科学者がいる。アインシュタインの書斎には常にファラデーの肖像が飾られていたという。
現在ファラデーの名は、静電容量の単位ファラド[F]として、SI組立単位に残っている。
Last Update 2010/09/05
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