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ガリレオ・ガリレイ
イタリア 1564~1642
近代科学の父
最初の物理学者
ピサのフィレンツェに古くから伝わる名家に生まれるが、ガリレイが生まれたころは裕福といえるほどではかった。フィレンツェ近郊のヴァロンブローザ修道院で予備的な学習をすませたのち、有名な音楽家であった父の「医学を学ぶように」という希望から、1581年、17歳でピサ大学に入学する。 当時はアリストテレスの考えが絶対的な真実とされていた。ガリレイも当初はこれに倣うのだが権威主義的に押し付けれれることを嫌い、次第にアリストテレスの考えに疑問を持ち始める。
たまたま幾何学の講義を立ち聞きし、自分が本当に興味があるのは数学、物理学であって医学ではなかったことに気づく。学位を取得することなく退学し、1589年、ピサ大学で数学を講ずる資格を取得して1591年まで数学教授を務める。翌年、パドヴァ大学数学教授に就任。
ガリレイは貨幣に含まれる金や銀の比率を、天秤と比重を用いて高い精度で測定する”小天秤”を作成するなど才能を発揮しはじめ、 これらの実績により”16世紀のアルキメデス”と呼ばれるようになる。ガリレイ自身、聖アルキメデスと呼ぶほどアルキメデスを尊敬していた。
1605年、落体運動の法則を発見する。 落体の運動は、アリストテレスによって「落ちる物体の速度は、その物体の重さに比例する」とされており、いかなる学者もこれを否定することはなかった。 なぜなら鳥の羽がゆっくり落ちることは視覚的に確認でき、これが大きな説得力になっていたためである。 ガリレイは空気の抵抗に着目し、表面積が大きく軽い物体は空気抵抗によりゆっくり落ちるのだろうと仮定した。 ピサの斜塔から同じ大きさの鉄球と木製の球を同時に落下させ、地面に同時に落ちたことを確認する。 アリストテレスの間違いがこれほどはっきり証明されたことは、ガリレイの実証以前では一度もなかった。
1610年、オランダで1609年に発明された望遠鏡(当時ラテン語でペルスピルシムと呼ばれていた)を風聞を頼りに自作する。 この望遠鏡を天体に向け、発見した驚きをそのままに表した”星界の報告”を発刊する。 木星に4つの衛星を見つけることで、全ての天体が地球の周りを回っているとした天動説が誤っていることを指摘し、星々が動いているのではなく地球が動いているのだとしてガリレイはコペルニクスの地動説を支持する。 しかし、アルキメデスの天動説に支配されていた時代でガリレイの主張は大変危険なものであったといえる。
望遠鏡をみせるガリレイ
1613年、”太陽の黒点について”を発刊する。 しかし、1610年に発刊した”星界の報告”、そして今回の”太陽の黒点について”によって、1616年、ガリレイは異端尋問所から警告を受ける。 保守的な宗教家は太陽を神の象徴とみなしており、全ての天体の中で最も完全なものと考えていたのである。 参考までに述べると、1600年にはコペルニクスの地動説に沿った主張を広めようとしたジョルダノ・ブルーノ修道士が、ローマ法王庁の宗教裁判にかけられ異端として火刑に処せられている。
1616年、地動説禁止の教令がローマ法王庁により発布される。教皇パウロ5世よりガリレイは、コペルニクスの理論を捨てるようにとの命を受けた。
1628年、観測結果から地動説の絶対的な証拠を得たので地動説禁止の教令を取り消して欲しい旨を願いでる。 地動説は聖書に抵触しないと説得を試みるが取り合ってもらえなかった。
1632年、16年の沈黙を破り”天文対話”をラテン語ではなくイタリア語で発刊する。 法王庁の意向を懸念して一方的に地動説を主張するのではなく、三人の登場人物が対話するといった形式にしたものであった。 しかし、ガリレイが主張したい部分は一目瞭然であり、ローマ法王は自分のことを個人的に批判する内容であると感じたようだ。 一部の知識人には歓迎されるがやはり攻撃されることになる。
”天文対話”は2月に検閲を通過したが8月には販売禁止になり、さらに9月、ガリレイは異端尋問所に召還される。 すでに68歳であり、病弱で視力も衰え弁護人もいなかったガリレイに対し、拷問の道具なども見せたようである。 1633年、判決が言い渡される。 ガリレイは「コペルニクス説(地動説)を捨て、これを呪い、嫌う」と宣言しなければならなかった。 このとき「それでも地球は動いている(Eppur si muove)」と言ったとされる説もあるが、この言葉はガリレイの記念碑か何かにある言葉らしい。
”天文対話”。 表紙に印刷された正式名称は”ガリレオ・ガリレイの対話。そこでは四日間の会合でプトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系について論じられ、どちらの側からも同じように哲学的・自然学的根拠が提示される” となっている。
尋問されるガリレイ
1638年、”新科学対話”を発刊する。法王庁の命令によってフィレンツェの自宅で幽閉の身であり、両目を失明していたガリレイは(太陽を望遠鏡で観測したらしい)、口述筆記などによってこれを完成させた。 自然と真実へのすさまじい執念である。 力学について説いており、それまでの間違った理論(神学、哲学と科学が明確に区分されていない)と正解へと導く科学的手法について触れ、ここで慣性の法則、落体の運動、放射体の運動を論じている。
ガリレイの”新科学対話”は1636年に完成していた。 イタリアのフィレンツェで完成したこの本が発刊されたのは、比較的規制のゆるいオランダ、アムステルダムであった。 視力を失ったガリレイは完成した”新科学対話”を読むことも叶わず、1642年1月、その長い苦難の生涯を閉じる。 ガリレイの死後も教会の指弾はゆるまず、葬式も、聖域への埋葬も認められなかった。 しかし、ガリレイの一件でコペルニクス以来100年におよぶ科学思想革命の死闘も一応の終止符を向かえ、古い宇宙観は次第に影をひそめるようになっていく。 約40年後、ニュートンのプリンキピアの中にガリレイの力学は吸収されていく。
”新科学対話”。 正式名称は”機械学および地上運動に関する二つの新しい科学についての対話および数学的証明” となっている。
1564年、ミケランジェロがフィレンツェに没する3日前に隣町ピサで生まれ、ニュートン生年の1642年にフィレンツェ近郊で死去した。この生没年はガリレイがまさしくルネッサンス期の衰退期から近代科学の勃興期に生きた人物であることを物語る。
地動説との絡みで語られることが多いガリレイだが、最大の業績は自然を探求する方法とその精神にあった。 実験的事実とそこから数学的に導かれる理論を軸にする実証的な科学的解明の方法を最初に示したのがガリレイであり、これが最初の物理学者と評される所以である。
科学を哲学から分離し、自然現象の解明に数学を使う。数学は具体的な現象を定量的に論じるための手段と位置づける。近代科学の礎となっていく方法論である。
Last Update 2008/03/23
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