電気の歴史に名を残す偉人の紹介[電気史偉人典] 電気史偉人典では電気の歴史に名を残す偉人たちを紹介しています

マクスウェル (Maxwell, James Clerk)

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マクスウェルという人は

ジェームズ・クラーク・マクスウェル ジェームズ・クラーク・
マクスウェル

イギリス 1831~1879

理論物理学者

スコットランド、エディンバラはグレンシアの裕福な領主の家系に、ファラデーが電磁誘導を発見した年に弁護士の子として生まれた。 父親は無類の科学好きで、仕事の合間の科学実験を趣味とし、エディンバラ王立協会の定例会議で学者の話を聞くのが無上の楽しみという人物であった。

胃がんにより8歳で母を亡くしたマクスウェルには教育係として家庭教師がつけられる。 幼いころから才気にあふれたマクスウェルの質問は難解なものが多く、次第にマクスウェルの興味は家庭教師では満足させられなくなっていく。 家庭教師は辞めてしまった。

家庭教師による教育をあきらめた父は10歳のマクスウェルをエディンバラの叔母のもとへ送る。 エディンバラ中学へ通うようになったマクスウェルは、14歳で最初の論文”卵形線と多焦点曲線の作図法”を仕上げ、この論文はエディンバラ大学物理学教授のフォーブスが代読した。 代読の理由は「半ズボンの子供服がエディンバラ王立協会の壇上に立つのはいかがなものか?」だったそうである。 この論文によりマクスウェルはエディンバラ大学入学を許可されるが、「16歳まで待つように」との父親の助言に従い入学を見送る。

1847年、エディンバラ大学入学。1850年、ケンブリッジ大学に入学。ケンブリッジの奨学生となる。 1856年、アバディーンのマーシャル・カレッジ物理学教授に25歳で就任。ちなみにニュートンが教授職についたのは26歳であった。 1871年、ケンブリッジ大学に初代実験物理学教授として迎えられる。

マクスウェルの主な経歴

1856年、”ファラデー力線について”の論文を発表する。 ファラデーがいう電気力線、磁力線の力線を流体の流線に置き換え、電磁誘導で発生する誘導起電力は磁束の時間的変化であるとして数学的に表現した。 この過程でベクトル的なものも生まれ始めている。 ファラデーの研究結果を読んで、数学を使っていないもののその研究手法は全く数学的であると感じたマクスウェルは、電磁気の諸現象について数学的な統一という考えを持つようになる。 マクスウェル以前で電気を数学的に取扱うことを実践したのはW・トムソンが静電気に対して試みた程度であった。

1861年、W・トムソンの提案で電気単位の標準化に関する会議を開催した。 マクスウェル、ジュールW・トムソンジーメンスなどが参加し、ウェーバーの提唱する電磁気単位であるc.g.s系、e.m.u系の採用が決定された。 また、電気単位の名前はその発見にもっとも関係が深い人の名を採用することとした。とりわけ電気抵抗の単位を決めることが急がれた。

1861年、”物理的力線について”という論文を発表する。 マクスウェルの電磁気論文第二である。第一論文に続いて力線を流体に置き換えた。 流体媒質中のうず流がもつ運動エネルギー(4πCρv^2)とW・トムソンがいう磁気エネルギーの積分表現(B=μH)を比較し、 この比較式と第一論文中の誘導起電力式を対比し、これを静電現象にあてはめ、誘電体のように電流が流れていなくても微粒子の変位は電流を生ずるという変位電流(電束電流)の概念が誕生する。 どうも難解で理解されなかったらしい。

1864年、電気抵抗の単位をオームに決定。マクスウェル、スチュアート、ジェンキンなどの実験から抵抗の単位がオームに決定される。

1864年、”電磁場の力学的理論”という論文を発表する。マクスウェルの電磁気論文第三であり、これまでの集大成である。 電磁気についてはエピヌスの遠達作用論、ファラデーの近接作用論があったが、 電磁場(電界・磁界)という概念から近接作用として理論を展開していく。 電磁誘導の法則やアンペールの周回積分の法則はずいぶん現代に近い形になり、 これにマクスウェルのオリジナルである変位電流を導入して空間に時間軸を加えた四次元の一般化座標を用いた波動方程式を完成させた。 マクスウェルの方程式と呼ばれるこの式は、ニュートンの運動方程式が古典力学の金字塔とされるのに対し、電磁気学の金字塔と位置づけられる。 マクスウェルの方程式が優れている点は電磁気現象をすべて説明できるに留まらず、”電場を消去して磁場のみが現れる式”、”磁場を消去して電場のみが現れる式”を導くことが可能であったことがあげられる。 これらはいずれも横波に対する波動方程式の形になり、この式から電磁波が光と同じ速度で空間を伝播する解を得ることにより、光の正体は電磁波であるとの予見をする。 のちにヘルツが実験により電磁波の存在を実証する。

1871年、光の電磁波説を提唱する。 すでに光と電磁波の速度は等しいと予見していたマクスウェルであるが、ここで電磁波こそ光の正体であると提唱する。 「ウェーバーが測定した3.1×10^10[cm/sec]が光速と同じであったのは偶然ではない。 光の媒質と電磁気的媒質は同じと考える十分な理由がある」とわざわざファラデーに手紙を送っている。 ファラデー効果やカー効果に現れる光と電磁波の相関関係、速度の一致、屈折率の関係などから、光も電荷の振動であり、 波長の短い電磁波であるとしたものであったが、当時はそのような振動をする電荷は発見されておらず、あくまで推論であった。 これが証明されるにはゼーマンの登場を待たねばならない。

1873年、”電気磁気論”の発刊。マクスウェル電磁気理論の集大成で4部作になっている。 それぞれに、静電気学、動電気学、磁気学、電磁気学が収められている有名な著書である。 冒頭ではベクトル計算法が書かれており、概念的なベクトルから算術的なベクトルへここで脱皮している。 マクスウェルの方程式は第4部の第4章でようやく現れる。 数学的にとても難解なもので当時の人には理解されなかった。

ジェームズ・クラーク・マクスウェル

ファラデーによる電磁場理論をもとに、マクスウェルの方程式を導いて電磁気学を確立する。 19世紀のもっとも重要な物理学者の一人で、電磁波の存在を理論的に予言し、その伝播速度が光速度と同じで横波であることを証明した。 気体の分子運動論を基礎づけたほか、分子速度を分布としてしめす確率的概念を導入して、統計力学への道をひらいた。 このほか、色円板を考案して色混合の法則などの色彩学や色感の研究、熱力学の原理などの成果でも知られている。 いずれも、それぞれの学問分野で現在では基礎とされており、一人の人間が成し遂げた仕事としては、今もなお天才の奇跡とされている。

優れた物理学者を多数輩出したことで歴史上有名なキャベンディッシュ研究所をキャベンディッシュの遺産でケンブリッジ在任中に設立し、その初代所長を終身務めた。 キャベンディッシュの非公開研究を発見し、整理し、公開する。 これによってキャベンディッシュの研究は初めて認知された。 母と同じ胃がんのため、48歳の若さでこの世を去り、入れ替わるかのように、アインシュタインが生をうける。

マクスウェルの死後、彼の理論は多くの科学者に研究されるようになり、マクスウェルの理論に熱中する人を称して”マクスウェリアン”という言葉ができた。

アインシュタインの言葉にこんなものがある。
「ジェームズ・クラーク・マクスウェル―彼と共に一つの時代が終わり、彼と共に新しい時代が始まった」

Last Update 2008/03/23

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