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ジョージ・
ウェスチングハウス
アメリカ 1846~1914
ウェスチングハウス社の創立者
ニューヨーク州スキネクタディの機械工場経営者の息子として生まれる。南北戦争に参加したためわずか3ヶ月しか大学教育は受けなかったが、教科書作者の先を行く実験家であったようだ。当然スクラップの山もつくってきた。 せいうちヒゲをはやし、無愛想で精力的でめかし屋で冒険好きであった。 1870年代の多くをイギリスですごし、1881年に帰国、ピッツバーグにユニオン・スイッチ・シグナル社を設立する。
1867年、脱線した列車を軌道に戻す装置と、軌道転轍機を発明する。 これら二品は非常に耐久性に優れていた。耐久性に優れていたため鉄道会社はめったに買い替えをせず、ウェスチングハウスは新しいビジネスを探さなければならなくなった。
1869年、エアブレーキを発明する。 スキネクタディからトロイへ移動中のウェスチングハウスは、列車の正面衝突を目の当たりにする。当日の天候は良好で視界は上々、路面は平坦で補修もきちんとされていた。 この好条件のなか貨物列車同士が正面衝突した原因はブレーキにあった。すべてを手動操作しなければならない当時の原始的ブレーキでは、停車までに半マイル(約800m)を必要としていた。 残骸を調べたウェスチングハウスは空気圧によりブレーキ片とブレーキドラム離しておき、空気圧が無くなるとブレーキが作動するエアブレーキを発明した。ほとんどの鉄道車両、一部のトラック、特にクレーン車にはこのエアブレーキが用いられている。
1881年、エアブレーキをイギリスで売り歩いた後、ピッツバーグに会社を興す。天然ガスが豊富なピッツバーグで自宅の裏庭を掘り、天然ガス長距離輸送のパイオニアとなった。 採取口の高圧を利用して数マイル先までガスを届けるという簡単なものであったが、消費地付近のパイプを太くすることで自然減圧する方式を考案し、これがのちの降圧変圧器の発想につながっていくようだ。
1884年、弟のハーマン・H・ウェスチングハウスがスタンリーに出会い、初めて電気の分野に乗り出す。 スタンリーの技術は進んでおり、エジソンのそれを上回るもののように思われた。例えば、エジソンの発電機は負荷に応じて電流を手動調整する必要があったが、スタンリーの発電機は自動調整が可能であった。 しかし、まだ実用的な用途を見出すには至らない。
1885年、ゴーラールとギッブスの変圧器の記事を目にしたウェスチングハウスは 交流システムの有用性を直感する。これまではウェスチングハウスもエジソン同様に直流の開発をしていた。変圧器を使用した高電圧送電の可能性を模索する。5万ドルでゴーラールとギップスの変圧器の特許を購入し、これの調査にスタンリーが当たった。 結線方式が実用的ではなく、電圧の調整が難しい。このままでは商業的価値は低いとのことであった。スタンリーによる変圧器の改良が始まる。
1886年、ウェスチングハウス社の発足。交流の将来性を洞察して同社を創業する。 この数年間にエジソンが展開してきた直流方式と真っ向から対立するものであり、ここに交直送電論争の火蓋が切られることになる。
1888年、バッファローに交流の中央発電所を建設する。送電電圧1000V、負荷電圧50Vであった。電力を安く遠くに送り、しかも安全な電圧で供給することが可能であった。 直流システムの欠点である、”発電所から半径数百メートル以内の距離に居住”という条件がとりはらわれ、ウェスチングハウスは大成功を収める。 数ヶ月のうちに発電所の注文が25件を数え、2年後には130の市と町がウェスチングハウスの交流システムを設置していた。
1888年、交流方式の欠点である動力負荷を補うため、誘導電動機の発明者であるテスラを雇う。 実用的な交流モーターが開発されるのは1892年のこととなるが、テスラの加入により交流システムの実現性は大きくアピールできたようである。 テスラとの契約は特許権使用料まで支払うといった破格のものであり、これはウェスチングハウスのテスラへの評価であったが、当時ウェスチングハウス社の財政はエジソンの後ろ盾であるJ・P・モーガンとの競争で逼迫していた。 特許使用料の頻度が高まる中、投資銀行から「破産したくないならテスラとの契約を破棄するべきだ」との警告にしぶしぶ従うことになる。 テスラの合意のもと、特許をウェスチングハウスが買い取ることで特許使用料がなくなる。以後テスラの60Hz交流システムが電力業界の標準になっていく。
もてなし好きなウェスチングハウス夫妻は頻繁にパーティを催したそうだ。参加したメンバーにはケルヴィン卿や、グレイ伯、アメリカ大統領もお呼ばれしている。 誰もが認める高潔で知的な人物であったようで、エジソンのような人の注目を集める才能にこそ恵まれなかったが、抜け目のない実業家であり有能な技師であった。
エジソンと違い、ウェスチングハウスは自分の発明を製造・販売することで電力事業に打って出たのではなかった。 入手可能な特許権を買い、腕のいい技師をスタッフに雇って、実用的な改良品を作り出すのがウェスチングハウスのやり方であった。
ウェスチングハウスの
変圧器
スタンリーを職業的発明家として雇い、彼が発明したものをウェスチングハウスが製造・販売した。有名なものにウェスチングハウスの変圧器がある。 電灯システムにおいてはエジソンの好敵手であった。技術的ではない戦いも繰り広げられたが、最終的には技術的理由からくる市場の評価で交流の勝利となった。 ナイアガラ・プロジェクトでは、エジソンが顧問、ウェスチングハウスが製造業者として参加しており、システムの構成を決定するのに4年もの歳月を要した。
Last Update 2008/03/23
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