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電気技術史上の一大革新
1880年から1890年代にかけての時期は電気技術史上一大革新の時期であった。 電灯の実用化によって電力産業発展の展望がつくりだされていたが、電力技術は電灯のみに限られるものではない。 工業生産の集中はますます高度になり、工場の大規模化によってそれまでにはない動力の技術が求められていた。 これまで工業や運輸において主要な動力源であった蒸気機関ではこの要求を満たすことはできなかったが、実用可能な交流電動機はまだ存在していなかった。
こういった情勢の中、1891年にフランクフルトで開催された国際電気技術博覧会は注目を集めることになった。 ラウフェン‐フランクフルト間の送電は電力技術の新しい発展段階の到来を象徴的に示すものとなった。
しかし、交流による電力技術の確立は、容易には行われなかった。 電力企業の内部でも直流技術を推し進める者と、交流技術によって企業を発展させようとする者との激しい争いがあった。 直流は変圧に難点があり、遠距離送電はできない。 他方で、交流送電の代表ともいえるフェランティのデットフォードの交流技術も未解決部分が多く、とくに並列運転に困難があると指摘されていた。
交流を主張する陣営でも、単相とするのか、テスラの二相方式にするのか、ドブロウォルスキーの三相方式にするのか決着がついていなかった。 「フランクフルトの送電実験に失敗していたら、事態はすべて単相交流方式採用の道へ向かっていたに違いない。」とドブロウォルスキーは回想している。 実験の結果は三相交流方式の成功を印象づけ、その後の多相交流方式の方向を決定づけることになった。
交流技術は数学教育を受けていないエジソンにとっては理解が困難なものではあった。 しかし、そんなことよりも、これまで築いてきた直流発電所システムがすべて無駄になる可能性があった。 直流システムを守るために、交流は危険との印象を植え付けるこんなことをしたらしい。
ブラウン技術顧問から死刑執行には交流を使うことを要求し、ウェスチングハウス製の交流機器を購入するように手配する。 世界最初の電気椅子による処刑者は、愛人を殺害したウィリアム・ケムラーである。AC1300Vを加圧されたが、発電機の不調により17秒で通電がとまる。死亡確認がないまま息を吹き返したケムラーに2回目の電流が流され、今度は約4分30秒も通電が継続された。 肉が焼け焦げる臭いのなか死亡宣言がなされ、翌朝のある朝刊には「ケムラー、ウエスチングハウスされる」との見出しが目に付いた。
ウェスチングハウスが言うには極刑に必要なものは”誘導コイル”と”サーキットチェンジャーを備えた蓄電池”で十分であるとのことだった。電流容量は?という疑問もあるが、これだとAC発電機は必要ない。 エジソンの発明で語られることは少ないが、電気椅子の発明者はエジソンである。
新聞記者や見物客を集め、バチェラーが1000Vの交流発電機にブリキ板を接続し、ネコやイヌを近づけた。 当然の惨事が起き、”交流の危険性”を宣伝した。 これには後のMIT教授、A.ケネリーも加わっていたようである。
ドブロウォルスキーは交直論争に対し、交流の優位さを示す報告論文を1899年に作成しているが発表は許されなかった。 AEG社の取締役会が、直流機器を専門に生産している友誼会社の利益を守ろうとしたためであった。
Last Update 2008/01/29
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